東京御廟 町屋光明寺

コラム

令和四年七月 祥月命日講 《 施行完了のご報告》

令和四年七月 祥月命日講 《 施行完了のご報告 》

令和4年 7月2日(土)午前10時より、町屋光明寺本堂において令和四年七月の祥月命日講を厳修いたしましたことをご報告申し上げます。

多くのご供養のお申込みを賜りましたこと、あらためて感謝申し上げます。

 
合掌


7月の法話

 本日は、お暑い中、ようこそお参りくださいました。
ただいま、7月の祥月命日講をねんごろにお勤めさせていただきました。
お疲れのこととは存じますが、せっかくのご仏縁の機会でございますので、少々お話をさせていただきます。
 仏教では、人が亡くなることを、「往生する」と申します。「往生」は「往って生まれる」と書きます。それでは、どちらに行かれるのか?
それは極楽浄土。極楽浄土は、阿弥陀さまがすべての生きとし生けるものを救いたいと願い、つくられたお浄土で、いろいろなお浄土がある中で、阿弥陀さまの極楽浄土は、その中でも最もすばらしいお浄土であるとお経にも説かれています。
浄土真宗の宗祖の親鸞聖人は、決して「死ぬ」という言葉をお使いになりませんでした。親鸞聖人は、「生」から「往生」と続いていくことを説かれました。
故人さまは、極楽浄土に行かれて阿弥陀さまのお傍に生まれられているのでございます。でも、極楽浄土に往って生まれて、それで終わりかというと決してそうではなく、極楽浄土には、ご先祖さまもおられます。阿弥陀さまのもと、ご先祖さまとともに、阿弥陀さまのお手伝い、つまり、みなさまを見守り、正しく導かれているのでございます。親鸞聖人はそのように説かれているのでございます。 阿弥陀さま、故人さま、そしてご先祖さまに感謝させていただくのがご法要であり、ご仏縁でございます。
 インドの古いお話に、『えりの宝石』という旅人のお話がございます。
昔のインドは今より気候はおだやかだったと言われておりますが、それでも過酷な自然の中を、ある旅人が飲まず食わずの苦しい旅をしておりました。あるとき、友人に会います。その友人は裕福で、苦しい旅をしている友を家に招き、あたたかい食事、やわらかい寝床を提供します。旅人は疲れもあって安心してぐっすりと眠ることができました。翌朝、友人は急用があり、よく眠っている旅人を残して出かけるわけでございますが、やはり友のことが気になります。そこで、高価な宝石をその人の着物の襟(えり)に縫い込みます。
そして、二人は別れ、その旅人はまた旅を続けるのでございます。
そして1年後、ふたたび二人は再会します。そのとき、友人は旅人の友に「君の着物の襟(えり)に宝石を縫いだ」を話します。旅人は友の友情に涙するというお話でございます。
このお話の裕福な友人というのはお釈迦さまで、旅人というのはそのお弟子で、お弟子は、お釈迦さまの傍にあるときは満ち足りているのですが、一人旅するときは過酷であるというお話であると言われています。
もし、この旅人が、宝石を使っていたら、過酷な旅も違ったものになったのではないでしょうか、あるいは、使わなくても、持っているということだけでも旅は違ったものになるのではないでしょうか?
私は、この宝石は、仏教、阿弥陀さま、ご先祖さま、故人さまを敬う心で、私たちはみんなご先祖さまから頂き、代々受け継いできており、そして今も頂き続けているものだと思います。 それを使うか、あるいは持っていると自覚するだけで、私たちの人生という旅も違ったものになるのではないでしょうか?
 私たち、みんなは、この宝石を持っている。どうかそのことを思い、阿弥陀さま、ご先祖さま、故人さまに感謝し、今日、明日、そして人生という旅を歩んでいかれることを願っております。
 先月末から、真夏日が続いております。また、新型コロナ感染も増加しているようで、不安な毎日でございますが、どうぞ、ご自愛なさって、健やかにおすごしいただければと願っております。
 本日はご大儀さまでございました。

合掌

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